June 29, 1900
フランス・リヨンに誕生
ジャン・ド・サン=テグジュペリ伯爵とマリー・ボワイエ・ド・フォンコロンブの第三子にして長男。長女マリー=マドレーヌは三歳、次女シモーヌは二歳年上。
1902
弟フランソワ誕生
1903
妹ガブリエル誕生
1904
父ジャン死す。
リヨンからラ・モールに転居
3月14日、父ジャンが脳出血のため急死する(享年41歳)。28歳で未亡人となったマリーは、五人の幼い子どもたちを養う手段がなかったため、それまで住んでいたリヨンのベルクール広場近くのアパルトマンを出て、両親が住むラ・モールの城館に身を寄せる。父シャルル・ド・フォンコロンブと母アリスは娘と孫たちを温かく迎え入れ、アントワーヌたちは幸福な子供時代を過ごした。
1906
「本当にあった話」を読む
『本当にあった話』は、『星の王子さま』の第1章に、物語の語り手である飛行士が6歳のときに読んだ本として登場する。6歳の誕生日に母マリーからプレゼントされた。母から文字の読み方を教わったアントワーヌは、偶然見つけたワインの製造方法が書かれたパンフレットを隅から隅まで読んでしまうほど読書好きだった。また、夜になると母がしてくれる、聖書やおとぎ話などの読み聞かせも好きで、幼少期にはジュール・ヴェルヌやハンス・クリスチャン・アンデルセンなどの作品に夢中になった。
1907
ラ・モールからサン=モーリス・ド・レマンスに転居
2月12日、母マリーの父シャルルがインフルエンザのため死去する(享年68)。長男エマニュエル・ド・フォンコロンブはそれまで陸軍でキャリアを積んでいたが断念し、ラ・モールの城館に移り住み領地を管理した。マリーが亡父を思い起こさせる場所から離れることを望んだため、大叔母ド・トリコー伯爵夫人の申し出を受け、子どもたちを連れてサン=モーリス・ド・レマンスの城館に移り住んだ。
1908
リヨンのキリスト教学校修士会(Frères des écoles chrétiennes)入学
1909
ノートル=ダム・ド・サント=クロワ学院(Notre-Dame de Sainte-Croix)に入学、ル・マンに転居
父方の祖父フェルナンの希望により、アントワーヌと弟フランソワはフェルナンが住むル・マン(サルト県)に移り、ノートル=ダム・ド・サント=クロワ学院(Notre-Dame de Sainte-Croix)に入学する。優秀な生徒とは言えなかった二人だったが、学校よりも祖父の厳格な教育方針に苦しむ。彼らの世話は叔母がすることが多く、母マリーは、ド・トリコー伯爵夫人に預けられている長女マリー=マドレーヌと次女シモーヌのもとへ行きがちだった。これにより、母との手紙のやりとりが始まり、1910年には「万年筆を手に入れた」と母に手紙を送っている。 ※この手紙から亡くなる数日前までの母に宛てた手紙は、『母への手紙(Lettres à sa mère)』(1954年)で読むことができる。
1912
“空の洗礼”を受ける
夏休みの帰郷中、サン=モーリス・ド・レマンス近くの飛行場で初めて飛行機に乗せてもらう。
1914
第一次世界大戦勃発、モングレ学院への転校
8月3日、ドイツがフランスに宣戦布告した際、サン=テグジュペリ一家はサン=モーリス・ド・レマンスにいた。母マリーは、アンベリュー駅(アン県)に赤十字の軍診療所を開設し、負傷者の治療に当たった。アントワーヌと弟フランソワは、ル・マンには戻らず、アン県に隣接するローヌ県・ヴィルフランシュ=シュル=ソーヌにあるノートル=ダム・ド・モングレ学院(Notre-Dame de Mongré)に転校、数か月を過ごす。9月9日、叔父であり洗礼に立ち会った代父でもあるロジェ・ド・サン=テグジュペリが戦死する(享年49)。
1915
スイス・聖ヨハネ学院への転校
ル・マンのサント=クロワ学院に戻り1914年度を修了すると、中立国スイス西部のフリブールにある寄宿学校・聖ヨハネ学院(Villa Saint-Jean)に弟フランソワとともに転校する。この頃、ドストエフスキーを愛読し、ボードレールを崇拝し、ルコント・ド・リールやエレディア、マラルメの詩を暗唱していた。のちにこの学院は、『南方郵便機(Courrier Sud)』や『戦う操縦士(Pilote de guerre)』といった作品に登場することとなる。1916年6月、バカロレア(大学入学資格試験)の第一部を文系科目で受けて合格し、聖ヨハネ学院で最終学年を迎える。
1917
弟フランソワの死、サン=ルイ高校への入学
7月3日、リヨンでバカロレアの第2部を哲学科目で受けて合格する。7月10日、弟フランソワがリューマチ性心疾患により死去する(享年15)。『戦う操縦士(Pilote de guerre)』で語られるように、弟が発作の合間に発した言葉「苦しくなんかない。痛くもない。ただ、どうにもとめられないんだ。これは僕の身体が勝手にやっていることなんだ」と言う言葉は後に『星の王子さま』に大きな影響を与える。9月、海軍兵学校受験準備のため、パリのサン=ルイ校(Lycée Saint-Louis)に入学。
1919
海軍兵学校の受験に失敗
1月、サン=ルイ校からボシュエ学院(École Bossuet)に転校。6月、海軍兵学校の筆記試験に合格するも、二次の口述試験に失敗。
1920
パリ国立高等美術学校への入学
6月、再び海軍兵学校の受験に失敗。10月、パリ国立高等美術学校(École des Beaux Arts)の建築科の自由聴講生(半年後に兵役を控えていたため)となる。この学校で、ベルナール・ラモットと知り合う。彼はのちに、『戦う操縦士(Pilote de guerre)』のアメリカ版『アラスへの飛行(Flight to Arras)』の挿絵を担当した。『星の王子さま』の挿絵も、当初彼に依頼されたが、最終的にはサン=テグジュペリ自身が描いた。
1921
兵役に服し、軍用機の操縦免許を取得
4月、ストラスブール近郊の第2航空連隊に入隊。7月、民間操縦士免許を取得。8月、モロッコの第37航空連隊に転属。12月、軍用機の操縦免許を取得。
1922
少尉に昇進、パリに戻る
4月、試験に合格し士官候補生となる。フランスに戻りイストル、アヴォール、ヴェルサイユで訓練と研修を重ね、10月、これを修了し少尉に昇進。11月、ル・ブールジェ(パリ)の第34航空連隊に配属される。
1923
婚約、墜落事故、
除隊、就職、婚約破棄
パリの裕福な貴族の娘ルイーズ・ド・ヴィルモランと婚約。5月ル・ブールジェで、規則違反の遊覧飛行中自らの操縦ミスにより大事故を起こす。6月、兵役を満了し除隊。秋、ヴィルモラン家の紹介でタイル販売会社に就職するも、婚約はこの年のうちに破棄となる。
1924
トラック販売会社に就職、セールスマンとして地方を回る
3月、ザウラー貨物自動車会社のトラックのセールスマン(販売代理店)となる。2か月間、シュレンヌの工場で、トラックのエンジンの部品などについて研修を受ける。その後、モンリュソン(アリエ県)に派遣され、そこを拠点に中部フランス三県(クルーズ県、シェール県、アリエ県)を担当。1年ほどの巡回販売の期間で売れたトラックは、1台もしくは0台だった(通常は月3〜4台)。地方を転々とし、空いた時間は執筆時間に充てていた。
1926
航空路線会社ラテコエール社に就職、郵便飛行士となる
1月、予備中尉に昇進。7月、旅客輸送許可のライセンスを取得しアエリエンヌ・フランセーズ社(C.A.F.)に就職、ル・ブールジェで遊覧飛行を行う。4月、母の従妹イヴォンヌ・ド・レトランジュ邸の文学サロンで知り合った編集者ジャン・プレヴォーにより、それまでに書きためていた『ジャック・ベルニスの脱出(L’Évasion de Jacques Bernis)』の一部が抜粋される形で、文芸誌『銀の船(Le Navire d’argent)』4月号に『飛行士(L’Aviateur)』というタイトルで掲載される。10月、ボシュエ学院の恩師シュドゥール神父の紹介により、航空路線会社ラテコエール社に転職。研修の後トゥールーズ-アリカンテ路線の定期郵便飛行に就く。
1927
カサブランカ-ダカール路線の中継基地キャップ・ジュビー(現在のモロッコ南西部タルファヤ)の飛行場長となる
1月、ダカールに移りカサブランカ-ダカール路線の定期郵便飛行に就く。2月、同僚リゲルの操縦する飛行機でサハラ砂漠に不時着。このときの出来事は後に『南方郵便機(Courrier Sud)』や『人間の土地(Terre des Hommes)』に描かれる。10月、サハラ砂漠の中継基地キャップ・ジュビー(現在のモロッコ南西部タルファヤ)に飛行場長として赴任。
1928
フランスに戻る
11月、予定の2か月遅れでキャップ・ジュビーでの任務を終え、フランスに戻る。
1929
『南方郵便機(Courrier Sud)』出版。ブエノス・アイレスに赴任。
1月、『南方郵便機』をガリマール社に送る。2月に契約を結び、7月、『南方郵便機』が刊行される。10月、アルゼンチンのブエノス・アイレスにあるアエロポスタ・アルヘンティナ社のCOO(最高執行責任者)に就任。ブエノス・アイレスからの既存路線であるサンティアゴ・デ・チレ(チリ)、アスンシオン(パラグアイ)、ブラジルのリオデジャネイロ(ブラジル)への円滑な運航の維持、そして、ブエノス・アイレスからパタゴニアへの新路線の開拓などが任務。11月、第1の延長路線:アルゼンチンのバイアブランカ-コモドーロ・リバダビア間を就航させる。『夜間飛行』を執筆し始める。
1930
ギヨメの遭難、コンスエロと出会う
3月、第2の延長路線、コモドーロ・リバダビア-リオ・ガジェゴス路線を開設。4月、キャップ・ジュビーでの功績によりレジオン・ドヌール勲章のシュヴァリエ(5等)を受章。補助路線:リオデジャネイロ、サントス、ポルト・アレグレ、モンテビデ(ウルグアイ)を開設。6月、僚友アンリ・ギヨメ、冬のアンデス山中に墜落、単機必死の捜索に当たるが発見できず。しかしギヨメは奇跡的に徒歩で生還。このエピソードは後の『人間の土地』に描かれている。9月、コンスエロ・スンシンと出会い、求婚。
1931
コンスエロと結婚、『夜間飛行』出版
2月、休暇をとりフランスに帰国。3月、アエロポスタル社、破産状態となる。4月、コンスエロ・スンシンとアゲで結婚。5月、カサブランカに移り同地とポール・テティエンヌ間の郵便輸送に就く。6月:アエロポスタル社が管財人の管理下となる。10月:『夜間飛行(Vol de nuit)』出版。12月、フェミナ賞を受賞、フランス文壇の寵児となる。
1932
アエロポスタル社の内紛~退社
2月、マルセイユ-アルジェ間の郵便輸送に就く。6月、内紛によりドーラが地位を追われ、メルモーズ、ギヨメとともに復帰のため奔走。7月、母マリーがサン=モーリス・ド・レマンスの城館を売却。8月、再びカサブランカへ。10月、無期限の休暇願(事実上の退社)。12月、水上飛行機を製造していたラテコエール社にテストパイロットとして入社。
1933
サン=ラファエルでの水没事故
7月、アエロポスタル社、エール・フランス社に吸収される。8月、エール・フランス社、他の民間航空会社4社を吸収合併。エール・フランス社に就職を申し入れるが不採用。12月、水上機ラテコエール293型機のテスト飛行中、サン=ラファエル港(ヴァール県)において操縦ミスによる水没事故を起こし、解雇となる。
1934
ハリウッド映画『夜間飛行』フランスで公開、エール・フランス入社
3月、映画『夜間飛行(Night Flight)』がフランスで10週にわたり公開される。前年、ハリウッドでクラレンス・ブラウン監督によって映画化されていた(クラーク・ゲーブルほか出演)。ゲランが飛行機のプロペラをあしらったボトルに入った香水「夜間飛行(Vol de nuit)」を発売するなど一大ブームに。4月、エール・フランス社宣伝部に入社。12月15日、航空機の着陸装置に関する特許を申請する(特許番号:FR795308。1936年3月11日に公開)。その後も10以上の特許を取得したが、少なくともフランスでは一つも工業的に使用されることはなかった。
1935
ソ連でのジャーナリスト活動・愛機シムーンの購入とリビア砂漠での不時着
4月、「パリ・ソワール」紙の依頼でスターリン政権下のモスクワを取材しルポルタージュを寄稿、絶賛を博す。レオン・ヴェルトと知り合い無二の親友となる。5月、映画脚本『アンヌ=マリー(Anne-Marie)』を執筆。6月、シムーン機を購入(コードロン630型。登録番号F-ANRY)。11月、エール・フランス社の宣伝のための講演を行いながらアルジェ、チュニス、カイロ、アテネなど地中海を周回飛行(約11,000km)。12月、多額の懸賞金が懸かったパリ=サイゴン(ベトナム、現ホーチミン)間の飛行記録更新に挑戦するも、リビア砂漠で不時着・遭難。
1936
スペインでのジャーナリスト活動
『アンヌ=マリー』(レイモン・ベルナール監督。邦題『夜の空を行く』)が公開される。7月にスペイン内戦が勃発すると、8月、「ラントランジジャン(L’Intransigeant)」紙の特派員としてスペイン内戦の取材でバルセロナへ。『血塗られたスペイン(Espagne ensanglantée)』と題した5本の連載記事を執筆。12月、ジャン・メルモーズ、南大西洋の横断飛行中に消息を絶つ。
1937
2機目の愛機シムーンの購入、スペイン・ドイツでのジャーナリスト活動
2機目のシムーン機(コードロン635型。登録番号F-ANXK)を購入。2月、エール・フランス社の依頼で、アンドレ・プレヴォとともに、フランス領西アフリカ上空:カサブランカ=トンブクトゥ=バマコ間(約9,000km)の路線調査。3月、脚本を担当した映画『南方郵便機(Courrier Sud)』が公開される(ピエール・ビヨン監督、邦題『南方飛行』)。飛行機が登場するシーンではスタントマンも務めた。6月、「パリ・ソワール」紙の特派員として再びスペインへ。同月予備大尉に昇進。8月、ナチス取材のためドイツへ。
1938
南北アメリカ縦断飛行への挑戦・グアテマラで墜落事故
2月14日、アンドレ・プレヴォとともに、愛機シムーンで南北アメリカ縦断飛行(ニューヨーク=南アメリカ大陸最南端のプンタ・アレーナス間)の記録更新に挑戦する。アトランタ、ヒューストン、メキシコ・シティ、ベラクルスを経由。16日、中米グアテマラの首都グアテマラ・シティーのラ・アウロラ飛行場において、アメリカとグアテマラの燃料の単位(ガロン)の違いを見落とし、過剰積載により離陸に失敗。人事不詳の重傷を負う。療養中、それまでに書いていたルポルタージュやエッセーを推敲し、『人間の土地(Terre des Hommes)』としてまとめる。
1939
『人間の土地』出版。第二次世界大戦勃発、動員される
1月、文学上の功績によりレジオン・ドヌール勲章のオフィシエ(4等)を受章。3月、フランスでガリマール社より『人間の土地(Terre des Hommes)』出版。アカデミーフランセーズ小説大賞を受賞。6月、『人間の土地(Terre des Hommes)』のアメリカ版が『風と砂と星々(Wind, Sand and Stars)』と題してアメリカで刊行され、ベストセラーとなる。全米図書賞(ノンフィクション部門最優秀作品)を獲得。9月、第二次世界大戦勃発。フランス空軍に予備大尉として招集される。地上勤務を勧められるも志願して第33-2偵察飛行大隊に配属。
1940
アラスへの偵察飛行。フランス降伏。動員解除されニューヨークに渡る
5月23日、アラス(パ=ド=カレー県)上空を偵察飛行(5月31日、6月6日、6月9日にも偵察飛行を行う)。これらの偵察飛行の様子は、のちに『戦う操縦士(Pilote de guerre)』で語られる。6月22日:フランスがドイツに降伏。独仏休戦協定締結。7月31日、動員解除。船でフランスに戻る。11月、アンリ・ギヨメが輸送飛行中にイタリアの戦闘機により撃墜される。12月:ポルトガル・リスボンから船で渡米。同船した映画監督のジャン・ルノワールと親交を深める。
1941
ニューヨークの亡命フランス人コミュニティで政治的に孤立する
1月末、事実上ナチスの傀儡政権であるヴィシー政府により、国民議会の議員に一方的に指名され、拒否する声明を発表。同様に、ド・ゴール派もサン=テグジュペリを引き込もうとしたが、信条の違いからこれも拒否。どの政治陣営にも属さないことで全てから批判・中傷されることとなるが、全フランス人の団結を訴え続け、即刻開放の唯一の手段と考えたアメリカ参戦を促す活動をする。12月、日本軍の真珠湾奇襲を受けアメリカが参戦を決めると、進歩主義教育協会の志願学生たちの前でヒューマニズムを説く演説をする(「若きアメリカ人へメッセージ」)。
1942
『戦う操縦士』出版
2月:アメリカ・ニューヨークで、ラ・メゾン・フランセーズ社からフランス語で、レイナル&ヒッチコック社からベルナール・ラモットの挿絵付きで英語で『戦う操縦士(Pilote de guerre)』のアメリカ版『アラスへの飛行(Flight to Arras)』を出版。絶賛されベストセラーとなる。5月、レイナル・ヒッチコック社の勧めで『星の王子さま(Le Petit Prince)』を書き始める。11月、連合軍北アフリカに上陸。原隊復帰のための奔走を始める。フランスでガリマール社から『戦う操縦士』が出版されるが、翌12月ヴィシー政府により発禁となる。
1943
『星の王子さま』出版、アルジェにわたり戦線復帰
2月、軍への復帰を認められる。4月6日、アメリカでレイナル・ヒッチコック社から『星の王子さま』のフランス語版と英語版を同時に出版。4月13日、アルジェリアに向けてニューヨークを出航。5月4日に到着し、翌日原隊である第33-2偵察飛行大隊に合流。偵察用最新鋭機ロッキードF-5A(P38ライトニングの偵察型)の制限年齢を大幅に超えていたが、上層部に掛け合い訓練を受けることを認められる。6月、アメリカで『ある人質への手紙(Lettre à un otage)』出版。ウジタ基地での訓練を終えP38の操縦許可を得る。少佐に昇進。7月、チュニスの原隊に戻り、最初の任務に就く。8月、2回目の任務の帰還時に機体を損傷、飛行停止処分を受ける。復帰のため奔走するも、ニューヨーク以来彼を毛嫌いしているド・ゴールの妨害もあり、8か月の間「生涯で最低の日々」を過ごす。12月、『戦う操縦士』リヨンで地下出版。
1944
偵察任務中に消息を絶つ
4月、第31爆撃飛行大隊の副操縦士としてようやく復帰を許されるも、爆撃機での任務を嫌い再び上層部に嘆願。5月、アルゲーロ(サルデーニャ島)で原隊第33-2大隊に合流、再訓練。6月6日、偵察任務再開。7月17日、プロヴァンス上陸作戦に向け第33-2大隊がボルゴ基地(コルシカ島)に移動する。原隊復帰の際、飛行任務は5回までと制限されていたが、これを超えて出撃を重ねる。7月31日午前8時35分、グルノーブル・アヌシー方面の偵察飛行任務(通算10回目)に出撃。予定された12時30分を過ぎても帰還せず。午後2時30分、燃料が尽きる時間を過ぎ、消息不明となる。8月25日、パリ解放。12月、フランスでガリマール社から『ある人質への手紙(Lettre à un otage)』出版。
1946
フランスでガリマール社から『星の王子さま(Le Petit Prince)』出版
1948
フランスでガリマール社から『城砦(Citadelle)』(未完)出版
1998
サン=テグジュペリの認識票ブレスレットが、マルセイユ沖でトロール船の網にかかる
2000
マルセイユ沖で大規模な捜索が行われ、サン=テグジュペリ乗機の同型機の残骸が発見される
2003
引き揚げが実施され、調査の結果サン=テグジュペリ乗機と特定される
この時に至っても遺体は発見されていない。
2008
ラ・プロヴァンス紙が元ドイツ軍パイロットを対象に聞き取り調査を実施。ある対象者がマルセイユ沖で同日に同型機を撃墜したことを認める
証言したホルスト・リッパート氏はAFPの取材に対し、「もし(その飛行機の操縦士が)サンテグジュペリだと知っていたら、絶対に撃たなかった。サンテグジュペリは好きな作家の一人だった」と語った。